私の娘 19.いってらっしゃい

 まだ太陽の明かりが届かない早朝。

台所でひとり朝食を拵えていた。

 

「っ!」

 

水道管が凍結しそうなほどの冷水に手をかじかませても、この手は休まない。

 

黙々と調理を進めていると、後ろから声がした。

 

「おはよう、身体の調子はどうだ?」

 

着替えながら聞いてきたのは夫・久義だった。

 

「おはよう。 …もう痛くも何とも」

 

そうじゃない。 と腕組みを外した。

 

「心とか、精神的なことだよ」

 

「まるで重症みたいな言い方ね」

 

クスクスと小声で笑い、お茶碗を片手にご飯をよそった。

 

「もうできるわ」

 

「あぁ、大丈夫そうで何より」

 

柔和な笑顔で返事をする夫とふたりしてテーブルの席に腰かけた。

 

向かい合わせに座り、いただきます、とただ静かに食事を摂りはじめる。

 

普段は今日の予定や仕事の話など、何かと話しかけてくることが多い久義。

 

珍しく話すことがないのだろうと思った束の間、夫は沈黙を破った。

 

「食事中でわるいが、先生の…息子さんと連絡がとれてな。 体調を崩してしまって、最期はご実家の信州で過ごしたって」

 

ハッと目を開かせた。

 

私を4年弱ものあいだ診てもらっていた先生のことだ。

 

「ごめん、私から連絡を入れるべきだったわ」

 

「それはいい。 患者の、幸恵さんのことをずっと心配していたと」

 

私が退院してから1ヶ月。

 

交通事故の示談が成立し、一段落が付いたような平穏な日々がずっと続いていた。

 

家族にこれ以上の心配をかけるわけにはいかないと、夫の言う通りに通院は続けている。

 

先日、病院側の厚意により、先生の連絡先を教えてもらっていたが、故郷で静かに息を引き取ったと聞いたのは今まさにこの瞬間だった。

 

「ねぇあなた」

 

「何だ?」

 

「今までごめんなさい」

 

「どうした急に」

 

一呼吸をいれた久義は、静かに箸を置いて私を見続けた。

 

「受け入れたくなかったの……数年間……ずっと」

 

大切な娘がいなくなってから、ピースが嵌まらないまま通院を続けていた空白の毎日。

 

また、知らない少女にお母さんと呼ばれ続け、知らずしらずのうちに進む環境の乖離。

 

わだかまりがとけぬ日常に、これが自分の人生なんだと認めたくはなかった。

 

「俺も同じだよ、仕事そっちのけで」

 

だけど。 と続ける。

 

「今は早季がそばにいるし、 ……香織だって遠くから見守ってくれてる気がする」

 

そうだ。 一生、触れることも話すこともできなくなったとしても家族には変わりない。

 

ずっとどこかで私たちのことを……。

 

「これからの織辺家は4人家族だ」

 

「4人、家族…」

 

ようやく明かりが差してきたころ、チリチリチリ!と2階から甲高い目覚まし音が鳴った。

 

「よし、いってくる。 ……拭いておかないと、びっくりするぞ」

 

久義は自身の頬をトントンと当てながら言った。

 

「ええ、わかってるわ」

 

 

 

 

 

大きな深呼吸を終えたとき、少女は階段を降りてきた。

 

「おはよう、お母さん」

 

「おはよう」

 

大きな欠伸をこぼした少女は、コップに入った一杯のお茶をぐいっと飲み干した。

 

「昨日の話、本当なの?」

 

「本当だよ」

 

一日経っても驚きを隠せない私をおいて、本気と言わんばかりの顔をした。

 

昨晩。

 

家族会議と称した少女が言葉にしたのは、「看護師になる」という決意表明だった。

 

一体何を理由になりたいと思ったのか、突然すぎる発言を耳にした私と夫の2人はあんぐりと口を開けているだけであった。

 

もしかしたら、あの人に何か吹き込まれたのだろうか。

 

直近だと、理にかなっているようにも思えるが。

 

寝起きの今も同じ、少女の揺るがない瞳には直線を真っすぐに描くような熱意があった。

 

「大変よ、とくにお年寄りはね…耐えられる?」

 

「がんばる」

 

朝食を口へと流し込むように運んだあと、次はドタバタと床を走り回っていく。

 

前日に支度を済ませないその姿は、どこか見覚えのあるように不思議と見えてしまう。

 

扉が開いて眩しい朝日に照らされたとき、ふと我に返った。

 

玄関で少女は振り返り。

 

「じゃ、いってきます!」

 

「いってらっしゃい……早季」

 

もうひとりの、私の娘。

 

玄関の外まで見送ろうとしたが、娘は照れながら手を振っている。

 

部屋に戻ろうと振り返ると、同じく朝日に照らされた写真が目に入った。

 

靴箱の上に飾られた写真は、まだ新しいヒノキの上品なフレームに差し替えられていた。

 

「私ったらだめね、今だって……どことなく似ているから」

 

写真を手に取り、ガラス越しに軽く撫でる。

 

「中谷早季、あなたの妹よ。 ………仲良くしてね」

 

無邪気に笑う香織は今も、私を後ろから支えてくれている。

 

 

 

 

 

 

おわり