私の娘 16.その涙、大事にしないと一生後悔するわよ

 「幸恵をこれ以上悲しませたくなかったから、施設に頼み込んだんだよ」

「それじゃ、答えになってないよ…。

 その子の代わりに、わたしを選んだの? お父さん!!」

 

迷いがあることを知りつつも、せきを切ったように問いかけた。

 

「そうじゃない。 早季をはじめてみたときの幸恵と、早季自身のためを思って」

 

「うそ」

 

「すまなかった、父親失格だな」

 

ずるい、と思うのだけれど、失格ではないと思う。

 

別に騙されていたわけではないのだから。

 

わたしのためと思って、この家庭に迎え入れられて

実に7年もお世話になっている。

 

血縁だって何もない、それでも育ててくれた以上は

言葉では言い尽くせないほどの恩がある。

 

だからこそ、好き勝手言える権利などどこにもない。

 

わたしが父親の立場ならきっと同じ答えを返しただろう。

 

「こっちこそ…ごめんなさい」

 

残された親の気持ちと、自分たちの娘代わりにわたしを拾ったこと。

 

ここで同じ天秤にかけてしまったら、

おそらくわたしはもう織辺家にはいられない。

 

自分にとっての両親はもう、織辺家しかいないというのに。

 

何をどうするべきなのか考えているうちに、

いつしか考える気力そのものがなくなりつつあった。

 

「帰る」

 

したたる涙を左手で拭い、父から奪い取るように肩からスポーツバッグを掲げた。

 

「早季……」

 

ひとりつぶやく父の、わたしに対する信頼は少しずつ砕け落ちている気がした。

 

 

 

 

 

 

   

    *

 

 

 

 

 

 

 

病院の正面玄関を出る頃には、雨脚が強まっていた。

 

寂しい雨音は、無気力で、無関心な今のわたしにはお似合いにみえる。

 

傘を持たず、そのまま外に出たとき

 

「いいの? お母さんをそのままにして?」

 

背後から女性の声が聞こえた。

 

振り返らずとも声色でわかる。

 

昨日出会った看護師だろう。

 

名前は確か、北本さん。

 

「今日は帰ります」

 

「その涙、大事にしないと一生後悔するわよ」

 

「…………」

 

「お母さん、いまさっき目を覚ましたわ。

 あなたを、早季さんをずっと呼んでる」

 

「ちょっと今は会いたい気分じゃ」

 

軽く呆れながら振り返ったとき

前方の看護師は鬼気迫る表情でわたしを見つめていた。

 

「看護師じゃなくて私個人の意見で言わせてもらうけれど、

 代わりに育ててくれたことが気に入らないのはわかるわ。

 名前はちがうし、同じ血が流れてもいない。

 自分の考えだって理解してくれない。 ……どうしてか分かる?」

 

雨に打たれ、束ねていた髪の毛が濡れていることにも気にせず、

ただわたしの心に訴えてくるような言葉を発した。

 

「………それは」

 

「所詮、赤の他人だからよ。 でもね、そんなこと関係ないじゃない」

 

「あの、何が言いたいんですか?」

 

「あなた……香織ちゃんに嫉妬してるの?」

 

「!!」

 

「自分は親に愛されていないって勝手に悲観して、すぐ香織ちゃんと比べたがって。

 彼女がいなけりゃ幸せに過ごせたと思う? それはただのエゴよ」

 

「ち、ちがう! 何も知らないくせに!」

 

「全部知ってるわ。

 白血病で亡くなった香織ちゃんも、それで鬱病になった幸恵も!」

 

この人は、一体どうして。

 

初めて病室で会ったときとは、大違いだ。

 

今この場で、赤裸々に話している女性と同じ人とは到底思えなかった。

 

「北本、さんはどうして」

 

「私はただの看護師よ。 これ以上は言わないし、あとはあなたが決めなさい」

 

降りしきる雨に同じく打ち付けられていたわたしは振り返り、

 

「ごめんなさい。

 それでも、今は行きたくないんです」

 

拳を握りしめて、大声で怒鳴られても仕方がないほどに抗った。

 

じりじりと詰め寄ってきそうな予感はあったが。

 

「そう、最後にひとつ」

 

どうやら杞憂に終わったらしい。

 

「お母さんが退院するまで時間はまだかかるわ。

 話を聞いてるだけでもいいから、必ず会いに行きなさい。 ……約束よ」

 

涙ぐんだ声を出して、それでもと引きとめる姿をみたが

わたしは返事をしなかった。

 

今は誰とも顔を会わせたくない、そう思ったからだ。

 

そのまま雨中に消えるように、わたしは母を残して。

 

“大切な家族”を残して、病院から去っていった。