「早季…こっちに」
すぐさま落ち着きを取り戻して、わたしを呼ぶ母に近寄った。
「うん」
1週間近くも空いてしまった所為か、とても懐かしい感じがする。
ベッドの隣においてあった椅子に座り、隣から母を見つめた。
切れ長の目はすこし充血しているようにもみえる。
「先生が首に損傷があるって言ってて」
「大袈裟ね、軽い捻挫よ」
首に巻いたコルセットを指でつつきながら応えた。
「本当に?」
「ええ。 心配、かけたわね」
心配をかけたのはわたしだ。
無力な自分をさらけ出すように言葉を紡ぐ。
「お母さん、ごめん。 わたし何にも知らなかったから、だから」
「いいのよ。 そんなことより、村川くん。 生真面目ねほんと……香織が妬いてしまうわ」
「え?」
うふふ。 と笑みを浮かべながら話す。
何の話をしているのか皆目見当もつかなかった。
「早季、ひとついいかしら」
「なに?」
できることなら何でもといった感じに、身を乗り出して聞き出す。
「写真、手元にあったはずなんだけれど知らない?」
「写真は……」
しまった。
退院後、自宅に持って帰ってきてしまったことを思い出した。
「ごめん! ポケットに入れたまま持って帰ってしまって。 でも家にあるよ、ちゃんと!」
母にとって大事なものであるのはわかりきっている。
焦りながら自宅にあることを伝えた。
「そう…ならいいの」
「明日、持ってくるね!」
「ううん、家に置いたままでいいわ」
優しげな眼差しを向けた母は、続けて言う。
「あの写真をみてると、本当の自分が分からなくなってしまうの」
「?」
「自分だけが取り残されていきそうな、そんな感覚。 それなのに手元に無いと不安になる、おかしな話でしょ?」
「おかしく、ないよ? …本当の自分なんて、わたしもわからない。 すぐに拗ねたり、やる気になったり、いつも違う自分で生きてるくらいだし」
「不思議……。 早季だって気分の浮き沈みがあるってことね」
「うん、明るいときも暗いときも。 お母さんもきっといっしょだよ」
右手で口を隠した母は、唐突に聞いてきた。
「そうだとしたら、今の私はどっちかしら」
「明るいほうだよ。 だって今のお母さん、あの写真と同じ顔してるから」
そのとき、わたしがこれまで垣間見ることもできなかった笑顔が目の前にあった。
“わたし”を見ている顔、と言ってしまったらあの子に失礼だろうか。
「写真も何も、私なんだから当然じゃない」
目尻にたくさんの笑い皺を寄せて母は言う。
「そういえば、そこのテーブルにお菓子があるでしょう」
母の視線の先には、小さな紙袋が置いてあった。
「ここに勤めてる同級生の看護師から貰ったんだけれどね。 せっかくだし、持って帰ってくれるかしら」
「わたしが貰っていいの?」
「他人行儀はやめなさい、あと……ご飯ね」
「大丈夫だよ、わたし料理できるし」
「本当? 卵焼き焦がしたとき、職場に泣きながら電話してきたのに?」
「えぇ!!」
それは、多分わたしではないだろう。
でも、あの子よりは料理ができる!
鼻を高くしたわたしは記憶違いに疑問を持たず、このあとも話を続けた。
話をしていて思った。
心から、今日来てよかったと。
記憶障害、娘の代わり、そしてわたしは赤の他人。
そんなことばかりを気にして、しがみついて。
……わたし馬鹿だった。
わたしの母はここにいる。
それだけで十分じゃないか。
いつだったか夢見てた暖かい家庭。
今のわたしなら、つくっていける。
いや、つくりたい。
「どうしたの?」
「ううん、退院したときのお祝いを考えてるだけ」
この時間は、短い時間だけは。
今のわたしにとってかけがえのないものとなるだろう。
*
すっかり時間を忘れてしまい、気付くと日は沈み、辺りは暗くなり始めていた。
荷物を持って病室から出ると、ひとりの看護師が傍の廊下で待っていた。
「約束、守ってくれてありがとう……ちょっと遅かった気がするけど」
「北本さん」
「お母さん、きっと喜んでるわ」
先日とは180度変わった優しい表情をしている。
「あの、こちらこそありがとうございます」
失礼な態度をとってしまったことを含めて深く頭を下げる。
出会ってまだ間もないが、わたしが踏みとどまれたのはこの人のおかげなのかもしれない。
行動を察したのか、北本さんは口にした。
「この前はきつく言ってしまって、わるかったわ。 そうでもしないと、説得力がなくなっちゃうから」
説得?
ひっかかりを感じるも、そのまま話を続けられた。
「あと通院。 大変だと思うし、それでも付き添ってあげてね」
「それは、わかってます」
まずは退院できることが先決だが、そのあとのことはわたしが看ていかなければならない。
「ま、とにかく貸しはつくったってことで」
「お礼でも……期待してるんですか?」
「お礼なんてとんでもない」
高らかに笑う素振りをみせたが、すぐさま頭をかすめて言う。
「でも、春樹のコンプレックスを埋められるのはあなたしかいないかもね」
「コンプレックス??」
「あなたと同じような環境で育つ子どもは数え切れないくらいいるし、残された親や友達もまた、それだけ多くいるってことよ」
「同じ気持ちを知ってほしいってことですか?」
「そう思ってくれて構わないわ、“ことの善い悪し”を考える前にね」
「は、はい」
「共感って大事よ、私もこの仕事を始めてやっと理解したくらい。 …おっと、後ろ」
人差し指でスーっと示された。
言われるがままに後ろを振り返ると春樹くんが手を振っていた。
「もう遅いから帰りなさいな。 あ、お父さんにもよろしくね」
背中をポンっと押され、そのまま勢いに乗って走り出す。
「春樹が心を開くとき、次はあなたの番かもしれないわ」