わたしつむぎこが ごっこ遊びについて探究しようというのだ
昨日のはなし
某インターネット番組で、「機動戦士ガンダム 逆襲のシャア」を視聴した。
「母の日」を前にして放送するだなんて、あの放送局は意図的に仕込んだと考えざるを得ない。
とは言いつつも、観られる機会などそうそうないアニメ映画を放送してくれるのは、全身で喜びを感じるほどに嬉しかった。
画質、音質ともに向上したBlu-ray版、コメント機能による謎の一体感、そして秀逸なストーリーに心が惹かれてしまう。
実に9年ぶりの視聴だった。
初めて視聴したときは、宇宙空間での迫力ある戦闘にしか目がいかなかった。
例えば、主人公のアムロがエースパイロットをさっくりと撃墜したシーン。
「お、倒した」
映像を追うのが精一杯だったのか、初見はそんな感想だった。
だが、改めて鑑賞を続けていると全くちがう物語といえるほど、発見が次々に訪れるのだ。
個人的には、主要キャラの揺れ動く感情や男女のいざこざ。
これらの描写、ニュータイプの特質と可能性に重きを置いているとうかがえる。
上記のような視聴回数を重ねると、全体の背景がみえてくるものもあれば、モビルスーツに搭載した武装や、スラスターによる姿勢制御といったメカニクルな描写に気が付くこともある。
わたし自身詳しくはないが、一部のコアな視聴者を唸らせてくるだろう。
もしかしたら、また今度鑑賞すれば、新しい発見があるかもしれない。
所謂スルメ映画だ。
それにしても、巨大な隕石が地球に落とされる危機だというのに、挟まれる男女関係の描写はかなり多い。
2人の一騎打ちシーンがこの作品の醍醐味ではあるが、この“ドロドロさ”も魅力のひとつといえる。
幼いとき。
戦闘シーン以外はあまり興味がない、全ては最終決戦を盛り立てる演出だろうとしか思っていなかった。
ずっと戦闘シーンがあればいいのに、と思うほどに。
その感情は何なのかとつい考えてしまう。
子どもには外的な活動として『静』と『動』があり、教育評論家のはやし浩司先生は以下を述べている。
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よい授業かどうかは、「動」と「静」をみる。
「動」のときは、子どもたちが活発に意見を言ったり、笑ったりする。
「静」のときは、子どもたちが一転して静かに、黙々と作業をする。
そういう授業をよい授業という。またそういう指導ができる教師を、すぐれた教師という。
「参観は「動」と「静」を見る」 はやし浩司先生の育児・教育指導
https://www.sehimiry.com/ikujishidou73.html
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概ねの意味合いである。
今から述べることは全く関係ないかもしれないが。
子どもはモノの動きに捉われやすいのか、ダイナミックな動きや音に敏感に反応を示すことが多くある。
その経過又は結果現れるものとして、発達段階の、特に学童期においては、漫画やアニメの戦闘シーンに魅せられて真似をする。
感受性が強く、勇気ある子どもだからこそできるこの芸当。
「ごっこ遊び」と呼ばれているのは、ご存じであるだろう。
絵本を聴いたり、ビデオを観たり、学んだ影響からごっこ遊びが生じていることはまちがいない。
如何に正確に真似て、かっこよく演出できるか。
わたしは『静』から始まることは、『動』に終わることだと考える。
逆もしかり。
静と動を意識した、メリハリのあるお遊びが「ごっこ遊び」というのだ。
遅れたが、これはあくまで私の実体験の話。
ガンダムのような戦争ものはあまりにも緊張と興奮を寄せてしまうが、幼いときに観られた経験が小さな幸せだ。
つまり、過去に思いを馳せているだけである。
人が手掛けた創作物に、子どもは作品以上の想像力を湧き立たせてくれる。
まるで自分が物語の主人公を体験できる夢をみるように。
以上から、全体の物語を知ることよりもキャラクターの動きやセリフにのみ関心を持ちやすく、優先しやすい。
○○がかっこいい戦闘シーン以外は、要らないんじゃない?
という考えも今なら理解はできる。
あぁ、これも発見なんだね。
……いつのまにか、夜が更けている。
アニメの視聴よりも前に、ある方から
「妄想の世界に浸ることが好きなようだね」
と告げられて、なぜかこんな話をしてしまった。
おかしなことを言い始める前にそろそろ終わりにしよう。
今日はただそれが言いたかっただけなのかもしれない。