私の娘 15.たどり着いたのが精神科だった

 患者衣から着替えたわたしは、父と病院の案内を頼りに待合室へと向かい、織辺幸恵と書かれた名札のある病室に到着した。

 

「ここに、お母さんが」

 

今のわたしは、介護器具なしに歩けるほどに幸い大きなケガなどない。

 

道路で擦りむいたようなキズが膝にあったのを

着替えているときにやっと気づいたくらいである。

 

ますます、その程度で入院とは…と思ってしまうが

心配性な父であったからにちがいない。

 

「お母さん?」

 

覗くように顔から入室したとき、ベッドが一床あった。

 

木目調のインテリアと医療器具に囲まれた部屋で、母はぐっすりと眠っていた。

 

外見上に現れたキズはなかったが、首に巻かれたコルセットが痛々しそうにみえる。

 

しばらく立ちすくんでいたとき、後ろから白衣の男性が入室してきた。

 

「失礼ですが、……娘さまですか?」

 

「は、はい」

 

律儀にお辞儀をした男性は、首から提げていた名札を差し出した。

 

母を診たお医者さんだろうか。

 

「ご安心してください、命に別状はございませんので」

 

命って。

 

「あの、車にはねられそうになったのは覚えてるんです」

 

相手を待たず、勢い余って言い出した。

 

「わたしは大きなケガなんてなくて、でも母は!」

 

まずは落ち着いて。 と一呼吸入れた医師は、

 

「ある程度の事情はこちらも耳にしていますので」

 

「…ごめんなさい」

 

「幸恵さんですが。 衝撃が強く、頸部の損傷がみられます。

 しばらくは入院して治療を続けることになるでしょう。

 ……それとは別に、外的な要因ではありませんが」

 

突然、言葉を濁した医師はとなりにいる母に目を配りながら

 

「幸恵さんは記憶障害をお持ちかと思われます」

 

「きおく、しょうがい……」

 

ほんの一瞬。

 

耳を疑ったが、すぐに合点がいった。

 

納得せざるをえなかったのは、この数日間

ずっと思い悩ませていたものに違いがなかったからだ。

 

唇をかみしめていた医者はさらに告げる。

 

「はい。 ちょうど当時のカルテが残っていまして」

 

ファイルから取り出された白い紙には母の通院記録があった。

 

「治療継続中のまま、5年以上もこちらの病院には通われておりません。

 症状が回復しているのでしたら、大変失礼ですが、今はどうですか?」

 

「その、すみません。 いま初めて知ったもので」

 

そうでしたか。 と低い声で発した。

 

「当院では今も変わらず、精神科を設けていますので、

 もう一度通われることをおすすめします。

 また何かありましたらお気軽にお知らせください」

 

「あ、ありがとうございます」

 

優しく丁寧な説明を聞くも、軽く放心状態になっていた。

 

「それでは失礼します、お大事に」

 

稲穂のように頭を垂れた医者は、そのまま退室した。

 

そのお辞儀の裏には、何が隠されていたのか。

 

途中で通院をやめたとも考えられる、治療の放棄に疑問を抱いているのか。

 

それとも、子どものわたしが症状を理解していなかったことに対してか。

 

一歩も動けずに俯いていると、ふと机の上に1枚の写真が目に入った。

 

写真に手を伸ばし、表側に付着した砂をきれいに落とすと

隠された母の、満面の笑みが浮かび上がってくる。

 

もう2回目なのに、にわかには信じがたい。

 

母は本当に記憶障害だったのか?

 

「いるのか?」

 

後ろで父の声が聞こえ、ハッと振り向いた。

 

「いま先生とすれ違って…って、その写真」

 

「外で話したい」

 

お母さんに聞こえるから。 と小さく口にしたわたしは、

その場で硬い表情のまま話しかける父を、ゆっくりと遮って退室した。

 

 

 

 

 

 

 

 

      *

 

 

 

 

 

 

「なに飲む?」

 

「…ホットココア」

 

母のいる病室から少し離れた休憩所に、場所を移すことにした。

 

ベンチに座り、一息ついたわたしをみて

視線を外に向けた父は独りでに話しはじめる。

 

「もう20年も前の話だ。 俺と幸恵のあいだに娘がひとりいてな。

 香織……今のお前と同じ年頃で、背丈も大人しい性格も似ていた」

 

「いた、って?」

 

「今はもういない」

 

「亡くなったの?」

 

数秒、黙り込んだ父はわたしに背を向け、低い声で発した。

 

「“小児がん”だった」

 

小児がん……?

 

聞き慣れない言葉を耳にした。

 

「まさか自分の子どもが、……ましてや親よりも

 先に発病するなんて思いもしなかった。

 3年と少し治療が続いて、いい方向に進んでいるはずだったのに」

 

今にも雨が降りだしそうな灰色の曇り空をずっと眺めながら父は続けた。

 

「幸恵に異変を感じたのは、香織が亡くなってから半年が経ったときだ。

 あいつは、いつしか香織の服を買いに出かけたり、ご飯を拵えるようになった。

 はじめは寂しさを紛らわすためだと思っていたんだが」

 

胸の内を明かす父の声は、徐々に憂いを帯びた声色に染まりだす。

 

「俺は事あるごとに、どう言葉をかけたらいいのか……。

 もういない、香織はもういないんだよって。

 現実を伝えられなかった俺が、唯一たどり着いたのが精神科だった」

 

カルテのことは聞いたか?と問われ、うんと頷いた。

 

「残された遺族に対して、親身になってくれる先生がいてな。

 たぶん他の病院ではあまりみない、珍しい精神科だと思う。

 この人なら支えになってくれると安心していたが、数年前に退職なさってね」

 

「だから、お母さんは病院に行かなくなったの?」

 

「あぁ。 本当にいい先生でお母さん自身も安定していた、それまでは」

 

額を左手で覆った父。

 

仕方がないって言いたいが、今のわたしが

好き勝手言うのは避けたほうがいいかもしれない。

 

「もう、記憶障害のことはいいよ。

 無理に言わなくても、ここ最近のことで分かったし」

 

分かったつもりでいる、のほうが正しいか。

 

父親とこの件で、一度は話しておきたかったことが叶っただけでも十分である。

 

しかし。

 

「最後に、ひとつだけ聞きたい」

 

「何だ?」

 

やっとベンチに腰を下ろした父は、わたしに静かに耳を傾けた。

 

わたしのなかでは答えはもう出ている。

 

愚問にすらなり得ることを最後に問いかけた。

 

「わたしを選んだのは、その娘の代わりが欲しかったからなの?」