私の娘 10.どこか夢見たような

 準備を終えて家に帰ると、母はひとりリビングで料理本を読んでいた。

「あら、おかえりなさい」

 

「ただいま」

 

落ち着いた表情をした母は、膝の上で開いていた本をパタンと閉じた。

 

壁にかけてある時計をみると、午後3時。

 

お昼ご飯までには帰ると言っていたが、その時間は大幅に過ぎている。

 

「お腹すいたでしょう。 準備するわ」

 

手を洗ってきなさい。と言われるがままに洗面所に移った。

 

普段はお弁当、休日は共に食事をとる親子としての間柄であるが、

今日のわたしはまるで、仕事を終えて帰宅した父のようだ。

 

サッと洗った後、ドアの隙間からこっそりとわたしは覗く。

 

母は側にあるおかずをレンジにかけ、ご飯をよそっている。

 

平然としたいつもの後ろ姿だ。

 

何もおかしくはない。

 

背筋の整ったその体貌を見つめて小さく呟いた。

 

「お母さん……」

 

気配を感じたのか、背を向けたままの母は言う。

 

「座りなさい、もうできるわ」

 

「うん」

 

“あの日”、父と共に帰ってきたときに出迎えてくれたのは、

 

わたしが知る母・幸恵ではなかった。

 

あれから2週間と少し経ってもそれは変わらない。

 

話題を避けるように過ごしていた自分がわるいのか、それとも……。

 

ともかく納得してひとつ言えるのは、性格が少し穏やかになったことだ。

 

わたしに対する母の態度は、決して善いとはあまり思わない。

 

それは、「気づかい」といえる行動が感じられないからだ。

 

実を言えば、ここ一か月はわたしの身勝手な振る舞いによるものだが。

 

昔の母の性格など知る由もないとしても、

今の姿はどこか夢見たような温かみがある。

 

洗面所から出て、向かい合うようにしてテーブルの椅子に座った。

 

そして、てっきりソファに移動する母かと思えば、テーブルについて本を読み始める。

 

わたし一人のときに食べるときは、いつもは席を離れる母だったのに……。

 

いずれにせよ、作ってくれた母には感謝を忘れない。

 

「いただきます」

 

テーブルに俯いたまま、手を合わせた。

 

こんもりときれいに盛りつけられた山芋の煮物にお箸を動かし、口へと運ぶ。

 

平日の静まり返った昼下がり、母を前にして昼食をとるのは違和感極まりない時間だった。

 

 

 

 

       *

    

    

    

    

    

昼食を終えて準備していると、外からランドセルを背負った子どもの笑い声が聞こえた。

 

このあと祭りを楽しむのかなぁ、と自由な時間を満喫できる子どもたちを羨んでしまう。

 

勿論わたしだって獅子舞が終わってからは、明里と春樹くんに会える。

 

小学生を相手に競い合うつもりはないが、その時間のほうがずっと楽しみである。

 

支度を終えて、玄関で靴を履いていると母は近寄ってきた。

 

「じゃ、いってきます」

 

「ええ、獅子舞が終わったらすぐ帰ってくるの?」

 

「ちょっと、片付けが残ってて」

 

ほんの一瞬、言うべきか迷った。

 

友達と祭りに行くこと、きっと憶えているだろう。

 

頷く母は続けて言う。

 

「あんまり、夜遅くまでいるのはあぶないわ」

 

「うん。 できるだけ早く帰るから」

 

思いつきで誤魔化すのは卑怯だ。

 

それにしても。

 

ここまで優しい母を前にすると、逆になんだか不安になる。

 

平常心、平常心と心の中で繰り返しながら、

ドアノブに手をあてたそのとき。

 

「香織」

 

「………なに?」

 

靴箱の上段に手を添えた状態で、そして、声を落として言った。

 

「気をつけて」

 

いってらっしゃい。 といつも以上に優しい見送り。

 

わたしは、その母にゆっくりと答えた。

 

「ありがとう、いってきます」