私の娘 4.もう過去には縋らない

 練習が終わり、帰宅すると玄関の明かりは消えていた。

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「ただいま」

 

わたしが出掛けたのは知ってるはずなのに。

 

度重なる緊張により、疲れ果てた体で靴を脱いでいると、

リビングから母の声が微かに聞こえた。

 

「ねぇ、どうして……を庇うの?

 私たちの……は、香織ただ1人なのよ!」

 

香織? 

 

聞いたこともない名前を耳にした。

 

夜も遅いこの時間。 眠気も少なからずあったが、

気になったわたしは明かりが届かない廊下で、聞き耳を立てることにした。

 

「何度も言っているだろう……。 早季"も "織辺家の子どもだ。

 早季を迎えるとき、お前も快く承認したじゃないか。

 安心しろ、香織を忘れたわけではない」

 

「だから理由を聞いてるの!」

 

「うちの家族でいるのに理由が必要なのか?

 お前こそどうした。 ……早季が何かしたのか?」

 

「ちがう、ちがうの。 でもわたしは、わたしにはあの子が」

 

「少し頭を冷やせ。 疲れてるんだろう」

 

隣にいた父は半ば呆れ口調で答えた。

 

いつもは冷静沈着な父と母が、いがみ合っているようにみえる。

 

夫婦喧嘩とは、またちがう気もするが……。

 

「お前がそんなことでは香織は浮かばれない。

 そろそろ前を見ろ、俺はもう寝る」

 

「あなたは! どっちの味方なの?」

 

「……俺は、もう過去には縋らない。

 これからを大事にすると、あのときに決めたから」

 

呻く母にコップ一杯の水を注いだあと、父はリビングを出た。

 

「どうして……」

 

何が起こっているのか、全く理解できなかった。

 

父と入れ替わるように、わたしはリビングに入る。

 

ひとり佇む母の後ろから、弱々しく声をかけた。

 

「お、お母さん?」

 

差し出されたにもかかわらず、頑としてコップに手を伸ばさない母は

わたしの声に初めて気が付いた。

 

ゆっくりと振り返った母は、表情を変えて言う。

 

「……帰ってたのね」

 

その一言に、わたしは少しのあいだ慄然した。

 

捨て言葉のように言い放った母は顧みることなく、2階に上がっていった。

 

 

何なの……?

 

勝手に話を聞いていたのはわるかったけれど。

 

怒ってるなら、素直に怒ればいいじゃない……。

 

 

誰もいなくなったリビングで立ちすくみ、盗み聞きをした自分と母を責めたてる。

 

 

いつからだろう。 母から憎まれていると感じるようになったのは。

 

いつからだろう。 母は自分じゃない誰かを見ていると感じるようになったのは。

 

わたしは、……織辺家の子どもじゃないのかな。

 

 

たった一日に多くの出来事が重なり合い、頭がパンクしそうだ。

 

チカチカと照らす温白色の照明を見上げながら、わたしは静かに倒れ込んだ。