寂れた看板には、人の意思が執着している
残暑がようやくおちつき、秋の涼しさが感じられる日々。
冷房も暖房もいらない今の時期がいちばん過ごしやすいと思う、季節だけに関していえば。
数日前のこと。
地域のローカル新聞でおもしろい見出し記事があった。
“隣町と結ぶ橋梁計画がついに始動、市民の意見を積極的に取り入れる方針を固める”
わたしが住んでいる地域は、海を取り囲むような、U字型の陸地に面している。
記事を要約すると、近い将来、この海に橋を建設するのでみなさんの意見をくださいという内容だ。
それも最近になって“計画が始まった”という。
海辺に「橋梁の実現へ」とかかれた白い看板をわたしが初めて目にしたのは、記憶によれば15年以上も前。
潮風が止まないテトラポットの近くに、今もなお同じ場所に残されている。
もう色褪せ、市民の関心も薄れて、忘れ去られようとしていた矢先の記事だった。
わたしよりも、上の年代の人たちにとってはもっと長い歳月かもしれない。
橋の理想としては、明石海峡大橋とは言い過ぎだが、同じようなイメージを抱いていた市民の声があの看板にずっと込められていたのだろう。
ところが、理想だけではとてもなし得ない。
十数年以上も現実的な問題の処理にずっと費やしていたのだと考えると、なおさらである。
海を跨ぐ橋梁が実現すると、通勤時間の短縮や混雑の解消といった車社会にとっては便利になる期待されている一方、人件費や建設費等を含んだコストは大きく、一部は市民の負担も免れない。
既に人口減少が危ぶまれている地域において、莫大なお金と時間をここにつかってよいものか?
突発的な見出し記事の背景には、橋梁を建設するべきだという人たちの強い思念を感じるものである。
この利害得喪の1件に、一応市民であるわたしも何か意見を言うべきなのかもしれない。
当時こそ胸を膨らませていた過去の自分はもういないが、見出し記事のおかげで少しばかり興味を持った。
後日、同じ記事を読んだ同期生が乾いた笑いを浮かべながら言った。
「生きてるうちにできるといいよな」
「うん」
「でもまぁ、“ここ”を去りたいつむぎこに言っても意味はないよね」
「…………」
見出し記事にあった市民の声というものに、わたしの発言権はおそらくないだろう。
それは自分自身で決めることではあるのだが……。