教育という、愛を注がれている

 西日本の、特に関西地方ではコミュニケーションスキルの鉄板である「ボケとツッコミ」。

私がいま住んでいる地域も、ボケとツッコミには非常に寛容である。

 

寛容であるからこそ、役回りもあるのだが、私はあまり好まない。

 

……正直に言うと、苦手なだけだが。

 

 

 つい先日、あるイベントに行ったとき、同席したかつての同級生に言われた。

 

「ん~きみはどこの子かな?」

 

明らかに知らない素振りをする同級生。

 

わたしは知っている、同じクラスだったのに知らないわけがないだろう。

 

「……チャラくなっちゃって」

 

3秒ほど時間をおいて答えたが、しかし。

 

これは“ボケ”。

 

ツッコミをしないと、はずかしいのはわたしだ。

 

「つむちゃん、変わってないなぁ」

 

相手の口に出した言葉と反応に感づき、やってしまったと焦りだすわたし。

 

馬が合わないと知りつつも話を振ってきたのか、あるいは独りで佇んでいたわたしに慰めるつもりだったのか、よくわからない。

 

憫笑を買ったような同級生と、周りにいた男性たちの同じような顔をみたとき、思った。

 

この地域に住んでいる以上、ある程度の意識は忘れてはならないのだと。

 

“郷に入っては郷に従え”

 

だからといって、自ら入ろうとは思わない。

 

さらに言うと、今の郷に従いたくはないのかもしれない。

 

 

 

身にしみて理解した次の日、また同じようなことが起きた。

 

勤務中であり、教育中でもある先輩とわたし。

 

いつものように、丁寧に教えていただいている最中、ひとりの従業員が近づいて一言を発する。

 

「つむぎこさんをいじめたらだめですよ」

 

「いや、愛を注いでいるんですよ」

 

即答だった数秒間、耳を疑う。

 

すれ違った従業員は言葉を返すこともなく、そのまま歩を進めていく。

 

「(え、これもボケ? いやツッコミがボケてる?)」

 

ぐるぐると頭のなかで考えているうちに、2人の距離が離れていった。

 

「じゃあ作業に戻りましょうか」

 

「あ、はい」

 

2人とも終始真顔だったが、不仲ではない。

 

だとすると、これは先輩方にとって当たり前の日常ということになる。

 

いつもと変わらない調子で、わたしたちは淡々と作業に戻った。

 

 

 

そうか、さっきは先輩が独りでボケただけ。

 

自宅に帰り、一息ついたとき、やっとわかった気がした。

 

“いじめていない”と否定しつつ、“愛を注いでいる”とボケたのだと。

 

自然と冷静に返した言葉にこそ驚いたが、先輩自身のキャラは全く変わっていない。

 

綺麗なボケという表現は、ここでは合っているのだろうか。

 

 

 

 

 

昨日は、ボケには為すべきツッコミどころがあることを知り、

 

明くる日は、自身や相手を傷つけない綺麗なボケがあることを知った。

 

それにしても、もうひとりの従業員はなぜ何も返さずに去っていったのか。

 

コミュニケーションの在り方が、わたしの苦手なボケとツッコミが主流だという先入観があったからか。

 

もしかしたら、先輩がただユーモアのある返答をしただけなのかもしれない。

 

日本のユーモアのなかに漫才があるように、ツッコミをあえて必要としない部類の発言。

 

思えば、ジョークが上手い人はツッコミを求めない気がする。

 

求めてはいないのに、周囲に笑いや和みという付加価値を与えてくれる。

 

色々考えると、発言する人の土地柄がみえてきて、これもまたおもしろい。